
私がここ最近になって耳にしたのは、
「無宗教だけど、神様のようなものは存在していると思う。」というような言葉(意見)。
日本人は無神論者が多いと思っていましたが、
「山の神様とか、海の神様とか、
自然の神様は存在しているような気がする」という、
いわゆる八百万(やおろず)の神様といったイメージのようです。
確かに私もクリスチャンとなる数年前までは、
そんな風に捉えていた時期もあったな…と思います🤔
(ですので、完全な無神論ではなかったのかもしれません。)
信仰を持つ前は、
お正月には神社で、お盆の時期はお墓参りで、
ときにはお仏壇などにもお祈りしていました。
…と言っても私の場合は、
「何が何でも」と必死にしがみついて祈っていたわけではなく、
むしろ本心では、
祈ったことが叶うかどうかはあまり気にしておらず、
そういう場所に行ったら何かを祈る(拝む?)ものだと思っていただけのような気がします。
自分が拝んだ神社に、何の神様が奉られているなのかなど、
真剣に調べたりしていたわけでもありませんでしたし、
ただ単に「そういうものだろう」という、何となくの風習として行っていただけで、
実際に『何か願いが叶って感謝した』という経験も持っていませんでした。

ですがクリスチャンとなった今は、漠然としたイメージなどではなく、
はっきり「神様は存在している」とわかって、
日々、神様に向けてお祈りを捧げています。
なぜそのようにきちんと祈るのかというと、
真剣に祈れば祈るほど、
神様がその願いや悩みを聞いてくださる存在なのだと実感し、確信できるようになっていったからです。
これまでは、神社やお墓に祈っても、
そのような感覚を得たことはありませんでした。
それは神社やお寺などで、
私がさほど真剣に祈ってなかったからかもしれませんが、
そもそも(神社仏閣などでは)何に祈っているのかさえもよく理解しておらず、
「祈る」という行為そのものに確証を持っていなかったのだと思っています。

私は聖書を読んで、
聖書の神様が本当の神様だと直感したのですが、
その感覚に今も変わりはありません。
聖書を読んだキッカケについて、
過去記事もご覧ください📖

何千年も前から神様は本当に存在しておられたのだと実感していますし、
お祈りの日々を重ね、聖書の神様にすがるようになると、
自分の願っていたことが叶っていったり、
困っていた問題が解決していくようになっていきました。
本当に奇跡としか思えないような、
時には祈っていなかった願いが叶ったり、
身の回りの問題が解消されていったことも、何度か体験するようになったのです。
最近、ブログ記事にした、
『諦めていた「憧れのブローチ作り」、再開の兆しに見る不思議…。』
をお読みいただけるとわかるのですが、
過去記事はこちらです。

実は、かつての私は「ブローチ作家」になることに憧れていたのです。
ですが、同じ作品を何度も作ることが苦手という致命的な欠点を克服できず、
あえなく断念していました😢
その打開策として、常に一点物を作るというやり方もあると思うのですが、
横糸刺繍を使っての作品という性質上、
私の場合は必ず図案から作成しますので(この作業にとても時間がかかるのです)、
一回しかその模様を刺繍しないということは、
とても勿体ないことであり、効率もかなり悪くなってしまいます…。
それに、例えば「前回と同じブローチが欲しい」といったご要望があった場合、
やはり同じ模様を何度も作成することが必須になってきます。
それなのに、「同じ作品を何個も、何度も」作成できなかった私は、
ブローチ作家としての活動を諦め、断念するしかありませんでした。
こうしたことは信仰を持つ前のお話しですが、
数年前にクリスチャンになって以降、つい先頃(数ヶ月前)、
神様は、私のかつての願いを密かに叶えてくださっていたのです!!
本当に驚くべきことに現在の私は、
同じブローチのお色違いを何個も作することが難なくできるようになり、
(今のところ)3種類のブローチを心を込めて、楽しみながら作成しています*。゚

そもそも「ブローチ作家になりたい」という願いを持っていたことを、
私自身、ずいぶん前に忘れていたのですが、
日頃から、「神様の手足となって働けますように…」と強く願っていたところ、
気がつくと自然な運びでブローチを作成するようになっていました。
( 経緯について 詳しくは、過去記事をどうぞ😊
『諦めていた「憧れのブローチ作り」、再開の兆しに見る不思議…。』 )
こうした(私にとって)奇跡のような出来事によって、
「神様は、私がブローチ作家に憧れていたことをご存じだったんだ !」
と気がつき、心から感激して嬉しさが込み上げ、
神様からの愛を感じることができた喜びとともに、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
*。゜ *。゜ *。゜
私の「ブローチ作家」としての歩みは始まったばかりで、
まだまだこれからといった状況ですが、
今回はこんな風に、神様にお捧げする祈りには、
その人にとって真の幸福に直結する、絶大な効果があるということをお伝えしたくて、
記事にさせていただきました。

また、日常生活の中においては、目標や願いといった希望的な側面だけでなく、
様々な問題やトラブルが発生したりなど、
自分自身や周りの人間ではどうにもできない状況に直面する、ということもあると思います。
そうしたとき、やはり聖書の神様に祈ることが知恵だと感じています。
祈れば神様は聞いてくださいます。
日頃から神様を信じ、愛し、依り頼み、
神様に祈るのです。
祈らなければ、神様は聞いてくださいません。
(聖書の神様を知らずに祈っても、神様はその人の願いを聞くことはできません。)
祈ることにより、
問題が起った場合でも、その解決法がひらめいたり、
良い流れに自然とものごとが展開していったりなど、
神様が働いてくださったに違いないと思うような事態が、日常の中で増えていきます。
これまで日本人の多くは、聖書の神様については知らずに生きてきた方がほとんどだと思いますが、
何か問題が起った場合など、どうすることもできないとすぐに諦めて落胆するのではなく、
日頃から聖書の神様を知り、求めてほしいと願っています。
人は誰しも心の奥では、
永遠不変の絶対的な存在を求めているものではないでしょうか…?
聖書の神様は目には見えませんが、
私たち人類の幸福や成長を願って実在し、
多くの人が(神様に)立ち返ってくることを待ち望んでいらっしゃいます。
今回のこのブログ記事が、
我々の地上や人類など、全てを創造された神様について、
少しでも思いを巡らせるためのキッカケとなりましたら、誠に嬉しい限りです。
どうぞ皆さまに、
神様からの恵と祝福が豊かに降り注ぎますことを、
心よりお祈りいたします。

✦「求める」の文字が含まれる聖句 ✦
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
<新約聖書 ルカによる福音書 11章1-10節>

たくさんの人々が、
神様からの愛と導きを受け、
真に幸福な人生を生きられますよう、
心よりお祈りいたします。

最後までお読みくださり、
ありがとうございました。
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